何が何だか

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処分を免れて。

物置の整理を試みた結果(主語は、連れ合い)、古い段ボール箱が出てきた。
二十歳で山をやめたつもりで山の道具もすっかり処分したはずだったのだが、中には、10本爪のアイゼン、ツェルトザック(簡易テント)、シール(さすがにアザラシ皮ではないだろう)、ビニールポンチョ(雨具)、ロングスパッツ(ゲートルのようなもの)などが雑然と入っている。

ところどころにカビは出ているし、山道具は軽量化がずいぶんと進んだから、まあ、使えねぇなと思いつつ、箱の隅を見ると、グレーの布がある。
広げてみると、昭和42年の埼玉国体の記念手ぬぐいであった。その2年前の秋、山岳部門の予選で高校山岳部員として参加した時のものである。まさか買ったりしないだろうから、参加者にはタダでくれたものであろう。
ちょうどひと月前に腰痛が出てヘロヘロになった十文字峠を通るコースであった。

その時の夜のテント場で火など燃やしながら、山の話をしたり、山の歌を歌ったりしたときの、別の女子高からの参加者の暗闇に浮かぶ美しくもほてる頬などが懐かしく頭によみがえったことであった。

記憶はねつ造されるものである。

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40数年前のものなのに、アイゼンなど新品同様である。赤いテープは左右がすぐわかるように巻いておいたものであろう。



いい気候。

今部屋の中は29度。少し風が入るので、ちょうどいい。

*****引用開始*****

ーー と、言いますと?
「いろいろがんばって説明しても、ことごとく、そういう意味じゃないって意味で理解されてしまう」

ーー ああ、たしかにいまは日本語で話をしているわけだけれど、実はまったく別の意味体系が衝突している、と。僕なんかはその二つの狭間にいるという感じかな。
「そうやって理解しようとしてくれる人は、時間はかかっても分かってくれる。けれども、まったく別の言葉を話していて、理解する気もない人に分かってもらうのは本当に大変なのよね・・・・・」

ーー 僕なんかはお話をうかがっていると、むしろふだん見ないようにしている自分が見えてくる感じがしますけどね。だから、別世界の話とは思えない。けれどもそれが別世界の話じゃないと理解するのを妨げる何かがあって、僕の中にもその何かがまだ作用している気がする。
「やっぱり言葉だと思う。」

ーー そうですね。この相容れない二つの言葉って何なんでしょうね・・・・・・。

*****引用終了*****

買ってから改めて意識したのだが、この本(國分功一郎「中動態の世界」)は「医学書院」という出版社の「ケアをひらく」というシリーズの一冊であったのだ。

上記のプロローグを読んだとき、私の興味がピクピクと反応してくるところがあって、楽しみに本文に入ったのだが、それにしては読了までにひと月もかかったのはなぜか。
ここでまた、自虐的言辞を繰り返すのも芸がないので書かないが、とにかくこのほどめでたく最後のページまでたどり着いた。

人の行動がどこまでその人自身の責任なのか、というのは法的、倫理的、医学的などいろいろな場面で問いえることだと思う。この本は「する・される」という能動態・受動態のほかに、多くの言語においてあったはずの中動態という態を手掛かりに、バンヴェニスト、デリダ、アレント、ハイデッガー、スピノザなどの書物を読み込みながら、その問題を取り扱う。
とはいっても、衒学的な本ではなく、文章も日本語として意味はきちんととれる。だから、私でも一応読み終えられた。

ただし、内容をうまくまとめることなどできないので、もう一つ引用するだけにする。

*****引用開始*****
強制はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している、そうした事態は十分に考えられる。というか、そうした事態は日常にあふれている。
それが見えなくなっているのは、強制か自発かという対立で、すなわち、能動か受動かという対立で物事を眺めているからである。
そして、能動と中動の対立を用いれば、そうした事態は実にたやすく記述できるのだ。
*****引用終了*****

要再読。

しかし、こういう本は興味のない人にとっては「何を下らぬことを」という感じなのだろうと思う。

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今年も庭にネジバナが出た。


この頃の私

毎度毎度のお話だが、どうも集中力・根気ともに衰えるばかりで、困ったものである。

身体の具合が人それぞれであるのと同じで、頭の具合も個人差は大きい。私など、小学生の頃にピークを迎え、あとは下り坂続きであるのだが、最近はその坂の傾斜がやけにきつくなってきていて、つんのめってもんどりうって奈落の底まで行きそうであぶないのだ。
ふと気がつくと、前にはどことなく軽んじていた連れ合いと今では完全に立場が逆転している状態で、ある意味由々しきことなのではあるが、でも、やはり年齢を重ねれば、もともとあまり鋭角ではなかったがそれなりにあったはずのとがったところなどがとれてぼんやりしてこなくては、世の中のバランスがとれない気もして、これはこれでいいことなのであろうとも思う。

でも、私だけでなく、日本人全体が忘れっぽくなっているような気がする。いや、昔からそうだったのかもしれない。「のど元過ぎれば暑さを忘れる」とも、「過ぎたことは水に流して」とも言うし。
けれど、どうせすぐ忘れるだろうからと思われて、好き勝手なことをされたり場合には、案外根に持つというか、しつこく覚えていることもあるようにも思う。
その程度のことから、世の中が変わっていくこともあり得る。

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ナガバギシギシの実



なんなんナツメの花の下

人生における新しい試みがめっきり減っているので、ここに書くのも何回目だろうかという話題ばかりで気が引ける。だが、それを自覚しているということは私もまだ大丈夫なのかもしれない。

さて、昨日、Tverで、前にも推奨した「怪奇恋愛作戦」の第5話「純情奇譚」の後編を見たのだが、我知らず3本目の缶ビールを手にしていたからかもしれぬが、人を愛する若き男女の悲しさ・愛おしさに思わず涙ぐんでしまった。

幽霊の少女にあの世に連れていかれそうになっている痩せこけた三階堂(仲村トオル)が、幼馴染で喧嘩ばかりしているが本当は彼を愛する夏美(麻生久美子)に、そんなことじゃ死んじゃうよと必死に引き留められた時の言葉、「だって、頼まれたら仕方ないじゃないか」。これです。三階堂ってなんていい奴なのであろうか。
また「今宵は月がきれいですね」と漱石ばりの言葉を残して結局はあの世へ一人で行く少女の健気さ。

はっきり言ってフザケた下らぬドラマである。しかし、下る、下らぬ、は何によって決まるのだろう。
こう問いかけたといっても、私に答を期待しないでほしいのだが、とにかく、三階堂登と消崎夏美(命名センスがまたいい)のドタバタを見ていると、こちらの期待や予想を、お約束通りに外してくれるその面白さに笑いつつも、なんだかときどきシュンというかシーンというかの気持ちになるのである。

傑作です。

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ナツメ。



よせばいいのに、また手を出して

ネット上のいくつかの書評で好意的に扱われていた「勉強の哲学 来たるべきバカのために」(千葉 雅也)を読了。しかし、いい年をしてなぜ私はこういう傾向の本を読もうとするのであろうか。根本的に頭か心のどこか弱いのであろう。
とはいっても、さすがに私も伊達に年齢を重ねていない。すぐ買いはしない。書評を読んで、市立図書館で即予約したのが5月の連休の頃であった。予約待ち2番目だったから、3週間もあれば番が回ってくるだろうと思ったのだが、最初の借り手も次の借り手もしぶとかったらしく、やっと私の手元に来たのは5週もたってからであった。まださらに10人近く予約待ちの人がいる。

すぐ読めてしまったが、つまらなかった。副題をみればわかるはずである。
文章はわかりにくくはないのだが、好みではない。文章がよくないと内容も面白く感じられない。
一つの環境にとらわれている立場から、アイロニーとユーモアとによって、別の立場に移っていくのを勉強といい、そうしてもしょせん人はバカには変わりないということが書いてありました。この程度にしかまとめられない人をバカというのですと、書いてあったような気もします。
すでに内容は頭から抜けている。
200ページ以上も費やさず、岩波ブックレットくらいの厚さにまとめてくれれば、買ってもよかった。

それにしても、「頭の毛、ジャマではないですか?」と私が就職試験の時面接官に言われたのと同じ言葉を、千葉さんにもかけてあげたい。

口直しに福岡伸一の「新版 動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」を買った。疲れたので、まだページをめくっていない。

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忠犬ハチ公を連想する。



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